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人が、かつていたところ ──エデンへ ……

公的なレベル


人は、常に、私的な位置と公的な位置を、同時に持っている。
昼食に好きなものを選べる私的な立場と、決まった時間に出社しなければならないという公的な立場のように、二重構造の位置を持って生活している。この二つの位置の違いと使い分けを理解するのが大切なのであろう。
 
完全に私的な存在があるとしたら、それは、生まれたばかりの赤ん坊である。お腹が空いたといえば泣き、おむつが気持ち悪いといえば泣く。電車の中であろうと、どこであろうと。真夜中であろうと、いつであろうと。赤ん坊は、親の苦労など、まったく、おかまいなしなのである。
人は親になって初めて、一方的にただ愛するという、家庭における完全な公的位置を体験する。このように、人は家庭生活において、赤ん坊から親までを体験して、はじめて完結した人生を送るのだと気づくと、考え深いものがある。

家庭が、地域社会、国家、世界と、次第に発展していったと考えると── 個人が成長とともに、公的なレベルを、次第に上げていくことの意味が分かる。
社会に出て、競争や闘争というものを知り、小さなグループから、より大きなグループへと、レベルを上げ、人は成長しながら、最後にどのレベルに達するのかを問われるのである。企業なのか、政党なのか、国家なのか、世界なのか? あるいは、天にまで到達するのか?
志の高さとは、このことである。だれであっても自己の利益を追求しはじめると、そのレベルで止まってしまう。

政治にばかり、すべての責任を追求しようとする人がいるが、それは見当はずれである。政治に期待できることには、一定の限界がある。
国家の最高指導者が、単なる政党人であったなら、それは悲劇でしかない。それでは、闘争を続ける政党どうしの対立構造を、国家全体に展開することになり、そんな国家は、けして一つにはなれない。
過半数をどうにか代表するだけの位置では、国家の主人にはなれないのである。
親が自分の全存在をかけて、わが子を生かそうとするような、そんな指導者が、国の主人となるべきである。